サザエでございます。
朝から、サザエさんの曲が頭の中でヘビーローテーション。
『お魚咥えたドラ猫、追っかけて、裸足で駆けてく愉快なサザエさん。』
、、、、、
「あら、あれはあの磯野さんちの。」
「まあ、あんなに一生懸命ドラ猫を追いかけて。」
「あんなことがあったのに、相変わらず、元気ねえ。」
周囲の人々のざわめき、その裏に潜む嘲笑を感じながら、夕暮れの商店街をサザエは走り続けた。
愉快なの?何がそんなに愉快なのよ?人の不幸がそんなに面白いの?
そう、サザエは必死だった。家計は火の車で、サザエがパートで働いた収入でなんとかやりくりしているような状態だ。もうほとんど壊れてしまった家庭を、見せかけだけでもなんとか維持し、幼いタラオを育てる為も、サザエが頑張るしかない。
なんでこんなことになってしまったのかしら?
旦那のマスオは人のいいだけが取り柄の男で、将来的に大した出世は望めないのは分かっていた。でも、それでもいい。誠実な夫、暖かい家庭。そんなささやかな幸せこそが大切なのだと、サザエはマスオを選んだ。
だが、そんなサザエの想いとは裏腹に、日本経済はバブル崩壊と共に失速。終身雇用制度は崩れ、実力主義の格差社会がやって来た。マスオの勤める海山商事も、近年はその経営が悪化。「俺が辞めさせられたら、もう一家で首くくるしかないんだ。」そんなアナゴの泣き落としの前に、人のいいマスオは自ら早期退職を申し出てしまう。頑張ればなんとかなるさ、と新たな職を探すも、不況の波は予想以上酷く、その無力感とそして酒が、じわじわと繊細なマスオの精神を蝕んでゆく。
最初はそんなマスオに同情的だった両親も、泥酔したマスオがカツオを殴った頃から、その意見は急変する。
「酒に溺れるなんて、どうしようもない男だ。あんなクズ、もう捨てしまいなさい、サザエ。」
「そうですよ、サザエ。父さんの言うとおりになさい。」
「僕も、あんなやつ兄さんなんて呼びたくないよ。」
「姉さん、あの人に私とカツオお兄ちゃんの部屋には入らないでって言ってね。」
あれ程仲良く暮らしていたのに、問題が起こった途端の豹変。まるで、いらなくなった玩具をポイっと捨てるようなそんな物言いに、サザエは言いようのない怒りを感じた。この人達は、腐ってる。私がなんとかしなくては。私があの人を助けなくては。だけれど、肝心のどうすれば良いのか、がサザエには分からなかった。
その一件以来、マスオは完全に部屋に篭り、両親はそんなマスオの悪口しか言わない。幼いタラオにまで、マスオの悪口を吹き込む両親。反発するサザエ。そこにあるのは負のスパイラル、絶望的な断絶。
ギクシャクした人間関係から逃避する為、母さんは宗教に、カツオは非行へと走った。 父はそんな二人を軽蔑し、暴力を振るう。家計は当然火の車となって、家庭は崩壊した。
ずっとずっと頑張ればなんとかなるものだと思って、生きてきた。明るく一生懸命やれば、今日より明日、明日より明後日にはよりよい未来がやって来るものだと信じていた。
今や押しつぶされそうに冷酷な現実の前に、サザエは何も考えず、ただただ走り続けるしかなかった。まったく先の見えないままに。「これは夢だ。」と現実から逃げ出そうとする弱い自分を奮い立たせ続けた。、、、負けるもんか、負けるもんか、負けるもんか、、、
、、、
久しぶりに近所の商店街に買い物に行った。噂話の好きな人達ばかりだから、陰口が怖くて、最近めっきり行かなくなっていたのだけど、商店街の魚屋でカレイを買った。今夜はあの人の好きな煮魚にしようと思った。これで少しでも昔のあの人に戻ってくれたら。
「今日の夕食は煮魚よ。」
布団にくるまったまま動かないマスオにそう告げると、それでも久しぶりに気分の高揚するのを感じる。こんな気持ち、いつ以来だろう?
そんなサザエが台所に戻ると、そこに一匹の年老いた猫がいた。近所でよく見るドラ猫。今は憎くさえある父波平に良く似たその猫は、勝手口から進入し、魚を咥えて悠々と逃げ去るところだった。我が物顔でふてぶてしいその態度。
それを見た瞬間、サザエの中で何かが音を立てて崩れた。刹那、サザエの口からは意味を成さない叫び声が溢れ出していた。裸足のまま、手じかにあった包丁をエプロンのポケットに忍ばせて、駆け出す。
平和な夕暮れの商店街をサザエは走る、周囲の嘲笑を聞きながら。ただドラ猫だけを見て、必死に走る。
そう、どう考えてもイカレテルわね今の私。でも、本当にイカレテいるのはこの私だけ?こんな姿の私、あなた達の未来かもしれない。くそったれ。現実感のない見せかけだけの幸せ、一皮剥けば存在しない空ろな平和、そんな全部が消え失せてしまえばいい。
弾けるように刻まれる心臓の鼓動、吐き出す息。酸欠でくらくらする頭にすら、はっきりと感じられる今がある。やがて足の皮はすり剥けて、足からは血が滲む。そんな痛みすら、サザエは無性に心地良く感じた。
私は、今、生きている。
もう周囲の音は聞こえない。
路地裏に猫を追い詰めると、サザエは躊躇うことなく、ポケットの中にあったその右腕を振り下ろした。何度も、何度も。ただひたすらに。
今夜はあの人の好きな煮魚だ。
その顔には笑みが浮かんでいた。
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